無功徳(むくどく)

禅の言葉の中にこのようなものがあります。

功徳とは、御利益や、神の恵といった意味をさします。無功徳とは、何の御利益や恵みも無いという事をさし、本来の意味は見返りを求めるなという意味です。

禅宗の開祖である達磨大師が中国に禅を伝えにいった際、当時権力を握っていた武帝との会話の中で放った言葉から伝えられている言葉です。

武帝は寺を作るなどするほどの仏教信者で、達磨大師がやってくるということに大変喜んでおり、心良く宮中に招き入れました。

その際、武帝が達磨大師に問いました。「私は今まで、寺を作り、経を写し、多くの僧を育てあげてきました。こんな私にはどのような功徳があるでしょう?」

その問に対して達磨大師は一言。「無功徳」この一言のみで武帝と達磨大師との問答は終わりました。

武帝は「なぜ今までこのような行いをしてきたのにも関わらず、無功徳だというのか?」と思いましたが、何の御利益もないの一言だけ。

仏教信者である武帝すら、わかることがなかったこの「無功徳」という言葉。それ以来この言葉は長く伝えられてきているのです。

この無功徳の言葉の中には、ただ単に、何の御利益もないと言っているのではなく、深い意味があります。

「御利益があると思って行っていることは善行とは言えない。無益でも愚行だと言われようとも、自分の信じる道を邁進するのが仏の慈悲行であるということ。寺を作ることも、経を写すことも、僧を育ててきたことも、その一つ一つの行いこそが、功徳のあることであるのにも関わらず、それ以外に何を求めようか」

つまり寺を作ったということも、経を写したということも、僧を育てたということも、その行動こそが素晴らしいのであって、人のために何かを行うということは、それ自体が尊いものであるということです。

私たちこそ、この無功徳を学ぶべきなのです。

お金のために仕事をして、いい学校にいくために勉強をして、楽しい時間を過ごすために友人と遊ぶ。私たちの現代の生活は、見返りを求めた行動に慣れ過ぎてしまっているのです。

見返りを得ることに慣れてしまっている人間は人に親切にすることにすらも見返りを求め、その見返りを当たり前だと認識してしまいます。

「あの時助けてあげたのにも関わらず、何も恩を返してくれない。」そして見返りを求めた行動を繰り返してきた私たちは、その当たり前と思っていた見返りがなければ、ひどく落ち込んでしまうのです。

見返りがないことに、不安や怒り、悲しみや憎しみなどに感情を奪われどんどん心を傷つけてしまいます。

最初から見返りを求めた行動などしていなければ、そういったことにならずにすんだのです。

私たちたちは、行動そのものに価値を見出す必要があります。親切にするということはその行動にすでに価値があり素晴らしいことです。それに気づくことができれば、何をしても自然と心が満たされていきます。

時にはその行いに対しての見返りがあるかもしれません。その時はその見返りに感謝しましょう。感謝するということも大変素晴らしい行いです。またあなたの心は満たされるでしょう。

「無功徳」この言葉から学びとり、清い心で生きていくことで、幸せな人生を歩んでいけるでしょう。