「愚か者が、自分を愚か者であると自覚するなら、彼はそのことによって賢者となる。愚か者が自分を賢いと考えるなら、そういう者こそが愚か者と言われる。」

自分がダメな人間であると認識している人間は、自分のことを良く理解しているため、これから先もまだまだ成長が見られますが、

自分自身を賢い人間だと認識している人間はこれから先、一切成長することがないと言っているようなもの。それこそが本当の愚か者である。

つまりお釈迦様は、常に自分が未熟であることを認識し、常に成長できるようにしておけと言っているのでしょう。

仏道とは、一切の執着を消し去り、生と死という大きな苦しみからも逃れることができる境地に達することを目的としています。

しかし、この境地はどんなに努力している人でも、一生のうちにたどり着くことができるかどうかというくらい、難しいことであり、その境地にたどり着きたいという執着すらも消し去らなければなりません。

したがって、自分はまだまだであると常に考え続けない限り、目標を達成することなど到底不可能であり、成長することは絶対にできないのです。

そんな一生をかけても、たどり着けるかどうかという仏教の世界の中、自分は賢いなどと考えている人間は、確かに愚か者です。

これは現代の世界でも同じことであり、仏教の世界の人間よりも、自分は賢いとか、自分は偉いといったことに陥りやすい環境にあり、実際にそう考えている人は大勢いることでしょう。

現代には会社という組織が山ほどあり、その中で優劣がつけられるのが当たり前です。

上司に怒られ、嫌われるもの、上司に褒められ、気に入られ、出世していくもの。

それが本当の評価を表しているものではないことなどは山ほどあります。

しかし肩書があれば、会社での立場は上になり偉くなることができる。そうなれば当然、自分は賢い人間だと勘違いする人が増えることは無理ありません。

そして会社だけの立場であるはずの肩書を、会社の外にまで持ち込んでしまう人もいます。

肩書や立場だけにとらわれて、社会人としてではなく、一個人、人間としての成長ができなくなってしまってはいけません。

自分はまだまだ未熟であると、常に考えられる人が、自分自身を高めることができ、充実した人生を送ることができるのです。

自分を賢いと勘違いした人は、その自信や肩書を失うことを恐れ、そうならないようにと無駄な行動ばかりを繰り返し、自分を苦しめることに繋がります。

そんなことをしなくとも、努力し己を高めていくことができれば、周りは変化に気づき、自然とあなたの周りに人が集まるでしょう。

自分の未熟さを認め、日々成長できるように心がけることが、充実した人生を送る秘訣かもしれません。