「生死の譬えを識らんと欲せば且らく氷水を将って比えん
水結ぼるれば即ち氷と成り氷消くれば返って水と成る
已に死すれば必ず応に生るべく出で生まるれば還って復た死す
氷と水と相い傷なわず生と死と還た双ながら美し」
(せいしのたとえをしらんとほっせば、しばらくひょうすいをもってたとえん
みずむすぼるればすなわちこおりとなり、こおりとくればかえってみずとなる
すでにしすればかならずまさにうまるべく、いでうまるればかえってまたしす
こおりとみずとあいそこなわず、せいとしとまたふたつながらよし)
「生と死のたとえを知りたいというのなら、氷と水にたとえてみるとしよう。
水は凝結すると氷になり、氷は融ければ水に還元する。
それと同じように、死んでしまうと必ず生まれ変わるものであり、生まれ出ると死ぬものである。
しかし氷と水は相手を損なうことはない。それと同じく生と死は両者相並んで善いものなのである。」
中国の詩人寒山(かんざん)が詠ったものです。
水と氷どちらもが違うものでありながら、同じものでもあり、互いに否定しあうことはない。
それと同じように生と死もまた、それぞれが対立するものではなく、それぞれがそのままに美しいものである。
にも関わらず、生にしがみつき生を憎んだり、死ぬことを恐れたりすることは全く意味のないものである。
禅の世界では、生も死も全くの別物であるという教えであり、それらは一切の繋がりのないものとされています。
生きている姿だけが美しいわけではなく、死んで横たわっている姿も、他に変えることのできない尊く美しい姿なのです。
生きることにしがみつき、死ぬことをおそれ、逃れようと生きることは、結局は色々な悩みや不安を生み出してしまいます。
その悩みは無駄な悩みであり、解決できるものでもありません。そんな悩みに人生を支配されてしまっては良い人生とは言えません。
生と死は春夏秋冬と同じこと。春から夏に変わるのではなく、秋から冬に変わるものではありません。春は春、夏は夏、それぞれの季節にそれぞれの特徴があり、またそれぞれが美しいもの。
仏教では、私たちは、一時の間自然の中で生かされているものであるとされています。死んだ後に自然に還されるのであれば、それもまた自然にいることになる。
生きている時も、死んだ後も、必ず誰かの心で生き続けるのです。私たちの存在そのものが消え去ることはありません。
そう考えることができれば、死への恐怖は次第に薄れていき、そのとらわれから、縛られることない人生を送ることができるでしょう。
生と死、一番の不安や悩みであるようなことでも、考えかた次第で、その不安や悩みをも和らげることができるのだと、感じさせられる今日この頃です。