一休が残した言葉にこんな言葉があります。
「無始無終、我が一心、不成仏の性、本来の心。本来成仏、仏の妄語、衆生本来、迷道の心。」
(むしむしゅう、わがいっしん、ふじょうぶつのしょう、ほんらいのこころ。ほんらいじょうぶつ、ほとけのもうご、しゅじょうほんらい、めいどうのこころ。)
僧は成仏したい、仏になりたいと思うものであり、悟りを求めるのであれば、それと同様に迷いがあるということを自覚することが求められます。
一休も仏になるというのは本来の心に気づくことであり、そのためには人は迷いの心を持つ生き物だと自覚することが大切だと説いています。
人は本来成仏しているということは、仏陀の方便であって、人は本来迷道の心を持つ生き物だ。
仏陀は最初から成仏していると言っているが、人は迷う生き物であり、自分は迷っているのだと自覚することを決して忘れるなという意味で、悟りや仏を求めることばかりにとらわれてしまい、迷い続ける自分を見つめ直すことをしなくなってしまう。
そうやって自分のことを見つめることもしないいまま、御利益だけを願っては他人頼みのお参りをする。いわば偶像崇拝になってしまう。一休はこうなってはいけないと説いているのです。
私たちも深く考えず神社に言っては、お参りをし願い事をお祈りします。だれでもお正月を迎えればお参りにいく人が多いのではないでしょうか?
多くの人がお賽銭をいれ、お祈りをしますが、現代のこの姿をみれば、一休は絶望するのでしょう。
どれだけの人が日頃から、自分のことを見つめているでしょうか?
自分はどういう人間なのか?今何を考えているのか?何を悩み、何を迷っているのか?自分のことを見つめて自分のことを良く理解している人は多くはないでしょう。
自分のことを何も理解していない、自分から変えようと何も行動してもいないのに、そんな自分を棚に上げ、自分の願いをお祈りする。
普段から何気なく行ってきたその行為が、愚かで身勝手な行為であることに、気づかなければならないと思いしらされます。
まずは自分で自分を見つめ理解する。そうすることで、例え気分を害した際、怒りで自分が支配されている状態でも、自分を客観的に見つめることができれば、自分は今怒っているのだと気づくことができ、自然と怒りは薄れていくでしょうし、
自分が迷いだらけの状態でも、人は迷う生き物だという事実を理解し、自分も迷っているのだと自覚することができれば、迷いに自分が占領されることなく、その迷いの中から抜け出すことができるでしょう。
迷道心を忘れずに、自分と向き合って生きていく。その生き方こそが自分の人生を変える一番良い方法かもしれません。