南無釈迦じゃ娑婆じゃ地獄じゃ苦じゃ楽じゃどうじゃこうじゃというが愚かじゃ

(なむしゃかじゃしゃばじゃじごくじゃくじゃらくじゃどうじゃこうじゃというがおろかじゃ)

一休が残した言葉で、お釈迦様が言ったことだとか、極楽か地獄だとか、苦しいとか楽しいとか、ああだこうだと振り回されているやつは愚かで馬鹿なやつがすることだという意味です。

私たちは誰が言った言葉という風に取り上げることが多く、その偉大な、有名な人が言ったということに注目が集まりがちです。

誰が言ったということに、とらわれることなく、その言葉自体を受け止めていくことが大切なこと。

亡くなったら、天国にいくのか、地獄にいくのか。そんなことは誰にもわかることのないことであり、地獄か極楽かということは、自分の心が決めることであると一休は言います。

同じように苦しいとか楽しいという感情も心次第で変わるものであり、こういったことにあれこれと悩むのは非常に無意味なことなのです。

ああだこうだと物事に執着してはいけません。執着を捨てること。それが禅の教えであり、執着を捨てることができたとき、何にとらわれることもなく、自分が信じる道だけを進むことができるのです。

一休は「禅僧は悟りへの欲求をも捨てるべき。悟る必要がないことを悟った」といった言葉も残しています。

禅僧にとっては悟りを得ることだけが目的のように見えます。そのために日々苦行と言われる修行を重ねています。

しかし、悟りを得ようと行うその行為自体が、悟りへのとらわれであり執着であるというのです。

では何のために、苦行を重ねているのか?と考えてしまいそうですが、これこそが一休が残した「南無釈迦じゃ娑婆じゃ地獄じゃ苦じゃ楽じゃどうじゃこうじゃというが愚かじゃ」という言葉に詰まっています。

何のために?とか、なぜしなければならないのか?とかああだこうだと考えるな。そんなことは愚かな行為だ。

考えることばかり日常的にしてきた私たちには、難しい言葉ですが、確かにいちいち考える時間はもったいないことですし、答えを求めても意味がない。そして悟りを得るためと答えをだしたとしても、悟りを得ることができないときは、不安になったり、悩んだりしてしまいます。

そういった煩悩がでてきてしまうのも、悟りを得たいという欲求があるからです。

であれば、そんな欲求は捨てたほうがいい。つまりどんな欲求も執着も余計なものを生み出すだけの邪魔な存在でしかないので、全て捨てろということです。

欲を捨てろということは決して簡単なことではありませんが、欲があることによって、悩みが生まれるのもまた事実です。

南無釈迦じゃ娑婆じゃ地獄じゃ苦じゃ楽じゃどうじゃこうじゃというが愚かじゃ

悩みがあったり、不安になった時には、この言葉を思い出して、自分自身を見つめなおしていきたいものです。